people – safar https://safar-magazine.com これからの旅とストーリー Tue, 14 May 2019 02:56:51 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.2.20 日本には婆がいる 〜『片品村のカヲルさん 人生はいーからかん』ライナーノーツ〜 https://safar-magazine.com/kaworu-katashina/ https://safar-magazine.com/kaworu-katashina/#respond Fri, 12 Apr 2019 05:53:57 +0000 http://safar-magazine.com/?p=412 群馬県片品村
Katashina Village, Gumma, Japan

『片品村のカヲルさん 人生はいーからかん』(図書出版ヘウレーカ)という本があります。季刊誌で12年続く小さな連載「カヲル婆さんのいーからかん人生相談」を再編集し、今年4月に発売されました。悩みに答える須藤カヲルさんは群馬県片品村に暮らす92歳。連載の読者からは「このコーナーを最初に読む」「カヲルさんに会ってみたい」など厚く支持されてきました。農家として生きてきた一般人のカヲルさんがなぜそれほど読者に慕われるのか、その言葉の魅力とは? 連載を企画し、書籍を執筆した編集者が考察します。
(写真:高木あつ子、文:しまざきみさこ)

Kaworu-san in Katashina-mura : Life is Iikarakan will be published late this month. The book is re-edited the popular serialization column of a magazine that elderly lady Kaworu-san gives unique answers to the readers in trouble, and the subtitle “Iikarakan” means “loose” with the nuance of “let it be” in the dialect of Gumma Prefecture. Kaworu-san has been a farmer living in the countryside of Japan. Why is she so loved?
(photographs by Atsuko Takagi, text by Misako Shimazaki)

 

カヲルさんを探せ!

2018年5月。「この新緑の頃が、片品村のいちばん美しい季節ですよ」と誘われ、書籍のための追加取材を兼ねてカヲルさんに会いに行った。2008年の秋に連載をお願いしてから、じつに11年目。文字のやりとりだけで繋がってきたカヲルさんとの初対面だ。車が片品村に入ったあたりからソワソワした。

「ここ、ここ! ここが味噌加工所。ここを曲がりまーす」と後部座席のみっちゃん。みっちゃんこと瀬戸山美智子は、2003年に横浜から片品村に移住し、農業や子育ての傍ら「iikarakan(いーからかん)」という屋号でワークショップを催すなど、片品で活躍している。2008年、カヲルさんを人生相談の回答者に推薦してくれた恩人であり、当初からカヲルさんの回答の聞き役、編集部との連絡係を引き受けてくれている一番の功労者だ。

カヲルさんの家が近づいてきた。すると「あ、いた! ほらほら、あの木のところ」とみっちゃん。指さす方向を見ても、まったくわからない。
「ほら、あの家の手前の木の下!」「寝てるかもしれないから、そっと近づいて」
まるで野鳥かタヌキでも探すように見回すと、新緑に揺れる梢の下に、煤けた麦わら帽子が見えた。カヲルさんだった。

 

昼寝をしていたカヲルさん

みっちゃんの娘がいち早く発見したカヲルさん。お気に入りの木の下で昼寝していた。

 

カヲルさんが暮らす片品村は群馬県の北北東に位置する。関東唯一の特別豪雪地帯だけあって冬の寒さは厳しいが、そのぶん、春は素晴らしい。早春の花が終わった5月、草むらに山間に川岸に、おびただしい数の生命がさまざまな緑色のグラデーションで湧きあがる。 カヲルさんはまるで、その中のひとつのようだ。木の下に居て、あたかもその一部のごとく、まったく異質でないことに驚いた。

 

片品村の雪景色

村内に多くのスキー場もある片品村。雪質のよさで近年人気が再燃している。

春の片品村

山を望む片品村の道。川のせせらぎがきこえるのどかな春。

 

現役のカヲルさん、引退したカヲルさん

「カヲルさん、大丈夫かなあ」と出発前に案じていたのは、フォトグラファーのあっちゃんこと高木あつ子。彼女もまた、カヲルさんに魅了された一人だ。10年前にカヲルさんに出会って以来片品村に通い、カヲルさんの写真を撮り続けてきた。2017年には写真展「片品村のカヲルさん」を開催、カヲルさんも遠路はるばる新宿のギャラリーまでやってきて、展示されている自分の写真に喜んでいた。

通称シルバーベンツ(シニア用カート)を自在に運転し、受注した味噌を仕込み、炭を焼いて、畑で作物をつくる。現役時代のカヲルさんはとにかく働く人。あっちゃんはその姿を、働く女子の大先輩として尊敬し、写真で追いかけてきた。だからこそ、夫の金次郎さんが亡くなり、88歳の誕生日に「引退宣言」して以降すっかり動かなくなったカヲルさんを、いつも心配していた。

 

味噌づくり(麹の仕込み)

味噌づくりは糀の仕込みから。味噌加工所の仕事は30年以上続けていた。

焼いた炭を運ぶカヲルさん

自宅前の炭焼き小屋で焼いた炭を運ぶ。夫は炭焼きの名人だった。

 

あっちゃんの心配通り、カヲルさんはすっかり年老いていた。杖をついて歩く姿に、現役感はない。ほとんど見えない目は、大好きな相撲中継でも力士がわからない。でも、こたつの上の湯呑をとるにも手探りなのに、台所ではフキが煮えていた。「カヲルさんが煮たの?」と尋ねたら、当たり前のように「そうだよ」という。「見えるの?」と訊いたら「食いもんとイケメンは見える」とニヤリ。手のひらにのせてくれたフキは、とても、とてもおいしかった。

 

フキの煮物

カヲルさんが煮たフキ。フキは朝、家のそばでとってきたという。

話をするカヲルさん

補聴器は不要。ひとつ聞けばみっつ返ってくるような回転の早さ。

 

取材のあいだ、カヲルさんは休みなく話す。次から次へと、ユーモアを交えながら、お茶やお菓子を勧めながら、よく通る声だ。見回すと古い家は、カヲルさんのこれまでの人生で溢れていた。炭の出荷先が書かれたままの黒板、養蚕に使った籠、畑仕事で汚れた長靴や農具。ああこういう暮らしの中で10年以上も、見知らぬ読者の悩みに答えてきたのか、と少しぐっときてしまう。カヲルさんは、本当によく働いてきたのだ。

 

台所で炊事をするカヲルさん

台所は胸ほどの高さ。もう何十年もここで炊事して暮らしてきた。

 

カヲルさんという「婆」

「どうしてカヲルさんを人生相談の回答者に選んだのですか?」とよく訊かれるが、タイミングと勘としか答えようがない。誰もがもつような小さな悩みを、身内に話すように相談できる場所にしたかった。会議ではさまざまな著名人が回答者の候補にあがったが、どれもピンとこない。一般の人がいい、と探し回ったが、なかなか見つからない。いよいよ困ったときに、片品村に暮らすみっちゃんが編集部の知人を通じて、「凄い婆さんがいる」と近所の人を推してきた。カヲルさんだった。

 

味噌加工所のカヲルさん

味噌加工所のカヲルさん(左)ら片品の先輩たちと、みっちゃん(右)。

 

そのとき、自分は「婆(ばば)」を探していたのだと思う。「おばあちゃん」や「ばぁば」ではなく「婆」。民俗学者の宮本常一がいうところの「婆さま」、自然や祖先や神、仕事や作法や人生の媒介者である「婆」という存在だ。自分の祖母におまじないをせがむように、悪戯をしてお灸をすえられるように、目に見えないものや現実の社会と自分をつなぎ、知恵や作法を教えてくれる婆。みっちゃんの話をきき、この人だ、と直感した。

 

仏壇とカヲルさん

仏壇に手を合わせる。綺麗な菊があがっていた。

 

知恵と経験を重ね年をとった女性は、「魔力」や「呪力」をもつ存在になるらしい。西洋で魔女というなら、日本には婆がいる。そう確信していた。知恵者としての婆。性別をこえた婆。そして出会ったカヲルさんは、文句のつけようのない「かわいい婆さま」だった。土を食らい、風を嗅ぎ、子どもをぽんぽこ生んで、金を稼いで生きてきた。妬まない、卑下しない、受け入れて生きてきたその言葉にはいつでも、明るさがあった。

わたしたちはカヲルさんの言葉に安堵したり、元気をもらったり、クスッと笑ったりする。そうだよね、そういうもんだよね。と自分の中にあった答えを再確認したりする。当たり前の言葉でも妙に納得してしまうのは、カヲルさんが自分で人生を耕し、乗り越え、長く生きてきたからだ。年長者への理屈抜きの敬愛がそこにはある。みんなにも婆が必要だった。そのことが、このうえなく、嬉しい。

 

畑のカヲルさん

疲れたら畑に寝転び、杖がなければ四つん這いがカヲル流。

四つん這いのカヲルさん

「曲がった腰も一生懸命生きてきて勲章だ」と笑う。

 

 

カヲルさんの横顔

悪口、愚痴、体の不調。ネガティブなことを一切言わない婆さま。

 

実物のカヲルさんは秘薬をつくる魔女というよりフキの葉の下に寝転ぶコロポックルのようで、ああ日本の婆さまは、精霊に近いんだと感じた。この感覚は、おそらく間違いない。 日本のあちこちに、カヲルさんのような婆がきっとまだたくさんいる。心細く未来を歩くわたしたちに、そのことは何より頼もしい。教わることは、果てしなく多い。もしまたそんな婆さまに出会えたら、わたしはこれからも躊躇なく飛びつき、教わりたいと思っている。

 

写真:高木あつ子
文:しまざきみさこ

 

関連書籍

『片品村のカヲルさん 人生はいーからかん』

『人生はいーからかん』書影

編者:カヲル組
定価:1500円+税
仕様:四六判、112頁(内16頁カラー)
ISBN 9784909753038
発行:ヘウレーカ

amazon.co.jpで見る

 

須藤カヲルさん(92歳)が12年続けている人生相談(季刊『うかたま』掲載)が、本になりました。 恋愛、人づきあい、仕事、子育てなどの悩みに対する回答から、「面白い」「癒される」「役に立つ」ことばをピックアップし、その際のカヲルさんとのやりとりも収録。カヲルさんの日常をとらえた写真とともに、「いーからかん」(カヲルさんの口癖で、いいかげん、よい塩梅の意味)に楽しめるつくりになっています。

全国の書店で4月25日頃から販売予定(書店にない場合はご注文をお願いします)。
※本書のお問い合わせは、heureka@heureka-books.com(担当・大野)まで

]]>
https://safar-magazine.com/kaworu-katashina/feed/ 0
タケジロウさんの沖縄戦 https://safar-magazine.com/takejiro_okinawa_battle/ https://safar-magazine.com/takejiro_okinawa_battle/#respond Fri, 23 Nov 2018 04:32:51 +0000 http://safar-magazine.com/?p=367 沖縄県北谷町
Chatan Town, Okinawa, Japan

日系二世としてハワイで生まれ、両親の故郷である沖縄で育ち、16歳でハワイに戻ったのち、アメリカ軍の通訳兵として沖縄戦を体験した人がいます。タケジロウ・ヒガ(比嘉武二郎)さん。4年前の2014年12月、当時91歳のタケジロウさんに話を聞く機会に恵まれました。太平洋戦争で国内唯一の地上戦となり、終戦直前の3カ月で約20万人もが犠牲になった沖縄戦。逃げ場を失って集団自決に追い込まれる民間人に、タケジロウさんはウチナーグチ(沖縄方言)で投降を呼びかけたといいます。タケジロウさんら通訳兵の呼びかけで命をつないだ人は、沖縄で2,000人とも3,000人ともいわれています。
(写真:大城亘、文:根本聡子)

Born in Hawaii as second-generation Japanese-American, Takejiro Higa was grown up in his parents’ hometown of Okinawa and moved back to Hawaii when sixteen years old. He volunteered for an interpreter of the US military and experienced the Battle of Okinawa. In 2014 we had an opportunity to hear about his story, when he was 91 years old. Okinawa was the only battle field in Japan during the Pacific War and 200 thousand people were killed in three months. Takejiro called for a surrender in Okinawa dialect to the civilian to come out of the caves they were hidden. It is said that in Okinawa 2,000 or 3,000 people were saved their lives by the interpreters’ calling.
<photographs by Wataru Oshiro, text by Satoko Nemoto>

 

排日運動が高まるなか、ハワイから沖縄へ

タケジロウさんに会ったのは、那覇から車で30分ほど北に行った北谷(ちゃたん)だった。国道58号線の陸側に延々と続く普天間飛行場のフェンスを過ぎると、海側に大きな観覧車が見えてくる。多くの飲食店や雑貨店が集まり、地元の人たちや観光客で賑わうアメリカンビレッジだ。58号線の先には嘉手納基地が広がっている。

アメリカンビレッジにあるホテルのロビーで話を聞き、海岸で撮影したいと願い出ると、タケジロウさんは快諾してくれた。あたたかい日差しが降り注ぐおだやかな冬の海。ところが、さっきまで笑顔だったタケジロウさんの表情は次第に曇る。

タケジロウさん
「(沖縄戦のときにアメリカ兵として)上陸したのはここよりもう少し北。海岸の景色はずいぶん変わってしまったね。でも山の形は昔と同じ。あのときは艦船の甲板からこの山を見ていたよ」

防波堤に腰かけてあたりを眺めながら、タケジロウさんはどこか遠くを見ているようだった。

 

おだやかでやさしい表情が印象的なタケジロウ・ヒガさん。沖縄に来たら毎日沖縄そばを食べていると笑う。

 

タケジロウ・ヒガさんは1923(大正12)年、ハワイのオアフ島で生まれた。両親は沖縄県北中城村(きたなかぐすくそん)からの日系移民一世。タケジロウさんには5つ年上の姉と2つ年上の兄がいる。ハワイの日系一世はサトウキビやパイナップルのプランテーションで、過酷な労働に従事することが多かった。アメリカ人からは日本人として、日本人からは沖縄出身者として、言葉や生活習慣の違いから差別を受けながらも、苦労を重ねて異国の地に根を下ろそうとしていた。

しかし、日本が富国強兵のスローガンを掲げて欧米列強に迫ると、日系移民が多いアメリカ西海岸やハワイでは日本人排斥運動が高まった。タケジロウさんが生まれた翌年には、アメリカ国内でいわゆる“排日移民法”が制定。アメリカに住む日系人が窮地に立たされるなか、父は妻と3人の子どもをいったん沖縄に帰すことを決意する。3年後に父は家族を迎えに来たが、肋膜炎を患っていた母とまだ5歳で母の手が必要なタケジロウさんは沖縄に残った。

タケジロウさん
「母と一緒に祖母のいる島袋(しまぶく)へ移り住んだのは私が2歳のときです。喜舎場(きしゃば)尋常高等小学校(現・村立北中城小学校)に進んだ12歳の頃、ハワイの父、島袋の祖父と祖母、母が相次いで亡くなり、その後は叔父に育ててもらいました」

「島袋は大きい集落で生徒も多かった。でも学校からいちばん遠くて、石ころだらけの山道を裸足で歩いて通いました。カバンを買うお金なんかないから、風呂敷を持ってね。家が貧乏な1年生と2年生は給食がありました。(学年が)上になると給食はないから、芋を手ぬぐいに入れて家から持っていく。でも、食べものを持っていない子もいましたね」

芋というのはサツマイモのこと。タケジロウさんが子どもの頃は、台湾の形に似ていることから台湾芋と呼んでいたという。ふだんの食事は茹でたサツマイモと味噌汁、叔父の畑で作る野菜や芋の葉。どこの家でも豚を飼っていて、一年に一度だけ屠り、塩漬けにして少しずつ食べた。ときたま食卓に上る豚肉は大変なごちそうで、「おいしいどころじゃないよ!」とタケジロウさんは笑う。

 

「(フールと呼ばれる)沖縄のトイレは豚小屋の上。座って腰を下ろしたら、豚が下でペロペロって(人糞を食べる)。お尻までは届かんよ(笑)」とタケジロウさん。

 

学校での思い出をたずねると方言札の話をしてくれた。明治維新後の日本では共通語としての標準語が奨励された。とくに沖縄県人が他府県人から蔑視される原因のひとつが方言だったため、沖縄では方言撲滅運動にまでエスカレート。学校では罰則の「方言札」が使われた。

タケジロウさん
「学校で方言を使ったら、先生から方言札を首にかけられました。ほかの誰かが方言を使うのを見つけるまで、ずっと下げてなくちゃいけない。だからね、方言札もらったら誰かを後ろから蹴るのよ。「やらー!(あー!)」って言わせて先生に報告するの。そうすると自分の方言札はとれる(笑)。だから戦後のいまはね、学校で方言を教えてるいうの聞いて私はうれしかったよ。言葉というのはね、どんな言葉でも習ったら、いつかは使いみちがあるかもしれないから」

タケジロウさんが “言葉の使いみち”を実感するのはずっと後、通訳兵として沖縄戦に従軍したときのことだ。だからこそ、学校で強制された方言札は苦い思い出にほかならない。

タケジロウさん
「尋常高等小学校を卒業した後は、収穫したサトウキビを那覇へ出荷したり、叔父の仕事を手伝いました。朝6時にサトウキビを荷馬車に積んで、島袋から那覇まで5時間かけて歩いて行きましたよ。必要なものを仕入れて島袋に帰ると深夜。馬の世話をして寝るのは2時でした。サトウキビの収穫時期はこれが毎日。ほかの時期も仕事はたくさんありました」

 

ジェスチャーを交えながら日本語と英語で話す。日本語を忘れないように新聞を読んでいるといい、沖縄の基地問題にも関心が高い。

 

 

日米開戦でアメリカ軍の通訳兵に志願

暮らしは貧しく、仕事も楽ではなかったが、当時の沖縄は皆が貧しく、特別不満に思うわけではなかった。ところが、タケジロウさんはあるきっかけで、ハワイに住む姉に手紙を書いてハワイに呼び戻してもらう。

タケジロウさん
「私がハワイに戻ったのは昭和14(1939)年、16歳のときです。日本では日中戦争が激しくなっていて、16〜19歳になる青年をどんどん満州に送り込んでいました。いわゆる満蒙開拓青少年義勇軍というやつ。それに引っかかって戦争にとられては大変だと、私は逃げるようにしてハワイに戻ったのです」

排日運動がますます高まるハワイへ渡るには、多額の旅費以外にも、近い親族による手続きが必要になっていた。そのため、10年以上会っていない姉に頼らざるを得なかった。沖縄では標準語を話すように強制されて苦労したが、ハワイでは英語が話せずに苦しんだ。働きたくてもレストランの皿洗いぐらいしか仕事がない。タケジロウさんはハワイの小学校に通い、放課後も日本語学校に通って勉強したという。

 

1939年、沖縄からハワイへ戻る船中にて。前列右端がタケジロウさん。

 

タケジロウさん
「ところがハワイに戻って2年後の1941年、12月7日(ハワイ時間)に真珠湾攻撃があって日米戦争(太平洋戦争)が始まった。考えられないことが起こってしまいました。日系人に対する風当たりは強まるばかりで、日系人の指導者層や帰米二世(アメリカで生まれ、日本で育ち、アメリカに戻った日系二世)を中心に、敵性国人として日本人収容所へ送り込まれていました。私は沖縄に14年も住んでいた帰米二世です。収容所へ連行される可能性がありました」

1943年2月には日系二世兵の募集が始まり、応募が殺到した。後にヨーロッパ戦線での勇敢な戦いで名を馳せる442連隊戦闘団だ。日本人の心を持ち続けた日系一世と違い、日系二世は生まれたときからアメリカ国籍。日系人の誇りと生活を守るためには、命をかけてアメリカへの忠誠心を示すしかなかった。でも、タケジロウさんの心境は複雑だった。日本が軍部ファシズムの道を突き進んでいた時期に、皇国思想と軍国教育を叩き込まれたタケジロウさんにとって、日本の敵国であるアメリカの兵士になる決心はなかなかつかない。

タケジロウさん
「ほかの二世たちが次々に志願していくなかで、自分だけが取り残されそうな気がしていました。兄も442連隊に応募しました。私が応募しないと怒る兄に対して、『私は満蒙(開拓青少年義勇軍)に送られたくなかったからハワイに戻ったんだよ。いまさら軍に入れって、ちょっと無理じゃないか』とケンカ腰になりました。でも、志願しなかったら敵性として収容所にぶちこまれるかもしれない。仕方なく志願しました」

ところが、兄は受かったものの、タケジロウさんは英語がうまく話せなかったために落とされた。「正直なところほっとした。でも、敵性として疑われているのではと不安にもなった」というタケジロウさんに陸軍省から手紙が届く。

タケジロウさん
「『日本語を話せる通訳兵を募集するが、君はまだアメリカのために尽くす気があるか』というものでした。志願するか非常に悩みました。日本語の通訳兵といえば、太平洋戦争に巻き込まれるのはわかりきっています。戦場で同級生や親戚の人に会ったらどうすればいいのか。悩むうちにまた手紙が来て、ホノルルのあるビルに呼び出されました。FBIと軍の将校の面談があり、日本語の文章を英語に翻訳させられました。その数週間後、荷物を持って来るように言われて入隊となりました」

タケジロウさんが入隊したのはMIS(アメリカ陸軍情報部)。入隊後はミネソタ州の陸軍情報部日本語学校(MISLS)で日本語の訓練を受け、日本の兵語や地理などを学んだ。英語がまだ十分ではなかったため、夜10時の消灯後もトイレにこもって勉強を続けたという。

 

ミネソタ州での訓練後、生きて帰れるかわからないからと記念に撮影したポートレート。

 

]]>
https://safar-magazine.com/takejiro_okinawa_battle/feed/ 0