safar https://safar-magazine.com これからの旅とストーリー Tue, 14 May 2019 02:56:51 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.2.20 日本には婆がいる 〜『片品村のカヲルさん 人生はいーからかん』ライナーノーツ〜 https://safar-magazine.com/kaworu-katashina/ https://safar-magazine.com/kaworu-katashina/#respond Fri, 12 Apr 2019 05:53:57 +0000 http://safar-magazine.com/?p=412 群馬県片品村
Katashina Village, Gumma, Japan

『片品村のカヲルさん 人生はいーからかん』(図書出版ヘウレーカ)という本があります。季刊誌で12年続く小さな連載「カヲル婆さんのいーからかん人生相談」を再編集し、今年4月に発売されました。悩みに答える須藤カヲルさんは群馬県片品村に暮らす92歳。連載の読者からは「このコーナーを最初に読む」「カヲルさんに会ってみたい」など厚く支持されてきました。農家として生きてきた一般人のカヲルさんがなぜそれほど読者に慕われるのか、その言葉の魅力とは? 連載を企画し、書籍を執筆した編集者が考察します。
(写真:高木あつ子、文:しまざきみさこ)

Kaworu-san in Katashina-mura : Life is Iikarakan will be published late this month. The book is re-edited the popular serialization column of a magazine that elderly lady Kaworu-san gives unique answers to the readers in trouble, and the subtitle “Iikarakan” means “loose” with the nuance of “let it be” in the dialect of Gumma Prefecture. Kaworu-san has been a farmer living in the countryside of Japan. Why is she so loved?
(photographs by Atsuko Takagi, text by Misako Shimazaki)

 

カヲルさんを探せ!

2018年5月。「この新緑の頃が、片品村のいちばん美しい季節ですよ」と誘われ、書籍のための追加取材を兼ねてカヲルさんに会いに行った。2008年の秋に連載をお願いしてから、じつに11年目。文字のやりとりだけで繋がってきたカヲルさんとの初対面だ。車が片品村に入ったあたりからソワソワした。

「ここ、ここ! ここが味噌加工所。ここを曲がりまーす」と後部座席のみっちゃん。みっちゃんこと瀬戸山美智子は、2003年に横浜から片品村に移住し、農業や子育ての傍ら「iikarakan(いーからかん)」という屋号でワークショップを催すなど、片品で活躍している。2008年、カヲルさんを人生相談の回答者に推薦してくれた恩人であり、当初からカヲルさんの回答の聞き役、編集部との連絡係を引き受けてくれている一番の功労者だ。

カヲルさんの家が近づいてきた。すると「あ、いた! ほらほら、あの木のところ」とみっちゃん。指さす方向を見ても、まったくわからない。
「ほら、あの家の手前の木の下!」「寝てるかもしれないから、そっと近づいて」
まるで野鳥かタヌキでも探すように見回すと、新緑に揺れる梢の下に、煤けた麦わら帽子が見えた。カヲルさんだった。

 

昼寝をしていたカヲルさん

みっちゃんの娘がいち早く発見したカヲルさん。お気に入りの木の下で昼寝していた。

 

カヲルさんが暮らす片品村は群馬県の北北東に位置する。関東唯一の特別豪雪地帯だけあって冬の寒さは厳しいが、そのぶん、春は素晴らしい。早春の花が終わった5月、草むらに山間に川岸に、おびただしい数の生命がさまざまな緑色のグラデーションで湧きあがる。 カヲルさんはまるで、その中のひとつのようだ。木の下に居て、あたかもその一部のごとく、まったく異質でないことに驚いた。

 

片品村の雪景色

村内に多くのスキー場もある片品村。雪質のよさで近年人気が再燃している。

春の片品村

山を望む片品村の道。川のせせらぎがきこえるのどかな春。

 

現役のカヲルさん、引退したカヲルさん

「カヲルさん、大丈夫かなあ」と出発前に案じていたのは、フォトグラファーのあっちゃんこと高木あつ子。彼女もまた、カヲルさんに魅了された一人だ。10年前にカヲルさんに出会って以来片品村に通い、カヲルさんの写真を撮り続けてきた。2017年には写真展「片品村のカヲルさん」を開催、カヲルさんも遠路はるばる新宿のギャラリーまでやってきて、展示されている自分の写真に喜んでいた。

通称シルバーベンツ(シニア用カート)を自在に運転し、受注した味噌を仕込み、炭を焼いて、畑で作物をつくる。現役時代のカヲルさんはとにかく働く人。あっちゃんはその姿を、働く女子の大先輩として尊敬し、写真で追いかけてきた。だからこそ、夫の金次郎さんが亡くなり、88歳の誕生日に「引退宣言」して以降すっかり動かなくなったカヲルさんを、いつも心配していた。

 

味噌づくり(麹の仕込み)

味噌づくりは糀の仕込みから。味噌加工所の仕事は30年以上続けていた。

焼いた炭を運ぶカヲルさん

自宅前の炭焼き小屋で焼いた炭を運ぶ。夫は炭焼きの名人だった。

 

あっちゃんの心配通り、カヲルさんはすっかり年老いていた。杖をついて歩く姿に、現役感はない。ほとんど見えない目は、大好きな相撲中継でも力士がわからない。でも、こたつの上の湯呑をとるにも手探りなのに、台所ではフキが煮えていた。「カヲルさんが煮たの?」と尋ねたら、当たり前のように「そうだよ」という。「見えるの?」と訊いたら「食いもんとイケメンは見える」とニヤリ。手のひらにのせてくれたフキは、とても、とてもおいしかった。

 

フキの煮物

カヲルさんが煮たフキ。フキは朝、家のそばでとってきたという。

話をするカヲルさん

補聴器は不要。ひとつ聞けばみっつ返ってくるような回転の早さ。

 

取材のあいだ、カヲルさんは休みなく話す。次から次へと、ユーモアを交えながら、お茶やお菓子を勧めながら、よく通る声だ。見回すと古い家は、カヲルさんのこれまでの人生で溢れていた。炭の出荷先が書かれたままの黒板、養蚕に使った籠、畑仕事で汚れた長靴や農具。ああこういう暮らしの中で10年以上も、見知らぬ読者の悩みに答えてきたのか、と少しぐっときてしまう。カヲルさんは、本当によく働いてきたのだ。

 

台所で炊事をするカヲルさん

台所は胸ほどの高さ。もう何十年もここで炊事して暮らしてきた。

 

カヲルさんという「婆」

「どうしてカヲルさんを人生相談の回答者に選んだのですか?」とよく訊かれるが、タイミングと勘としか答えようがない。誰もがもつような小さな悩みを、身内に話すように相談できる場所にしたかった。会議ではさまざまな著名人が回答者の候補にあがったが、どれもピンとこない。一般の人がいい、と探し回ったが、なかなか見つからない。いよいよ困ったときに、片品村に暮らすみっちゃんが編集部の知人を通じて、「凄い婆さんがいる」と近所の人を推してきた。カヲルさんだった。

 

味噌加工所のカヲルさん

味噌加工所のカヲルさん(左)ら片品の先輩たちと、みっちゃん(右)。

 

そのとき、自分は「婆(ばば)」を探していたのだと思う。「おばあちゃん」や「ばぁば」ではなく「婆」。民俗学者の宮本常一がいうところの「婆さま」、自然や祖先や神、仕事や作法や人生の媒介者である「婆」という存在だ。自分の祖母におまじないをせがむように、悪戯をしてお灸をすえられるように、目に見えないものや現実の社会と自分をつなぎ、知恵や作法を教えてくれる婆。みっちゃんの話をきき、この人だ、と直感した。

 

仏壇とカヲルさん

仏壇に手を合わせる。綺麗な菊があがっていた。

 

知恵と経験を重ね年をとった女性は、「魔力」や「呪力」をもつ存在になるらしい。西洋で魔女というなら、日本には婆がいる。そう確信していた。知恵者としての婆。性別をこえた婆。そして出会ったカヲルさんは、文句のつけようのない「かわいい婆さま」だった。土を食らい、風を嗅ぎ、子どもをぽんぽこ生んで、金を稼いで生きてきた。妬まない、卑下しない、受け入れて生きてきたその言葉にはいつでも、明るさがあった。

わたしたちはカヲルさんの言葉に安堵したり、元気をもらったり、クスッと笑ったりする。そうだよね、そういうもんだよね。と自分の中にあった答えを再確認したりする。当たり前の言葉でも妙に納得してしまうのは、カヲルさんが自分で人生を耕し、乗り越え、長く生きてきたからだ。年長者への理屈抜きの敬愛がそこにはある。みんなにも婆が必要だった。そのことが、このうえなく、嬉しい。

 

畑のカヲルさん

疲れたら畑に寝転び、杖がなければ四つん這いがカヲル流。

四つん這いのカヲルさん

「曲がった腰も一生懸命生きてきて勲章だ」と笑う。

 

 

カヲルさんの横顔

悪口、愚痴、体の不調。ネガティブなことを一切言わない婆さま。

 

実物のカヲルさんは秘薬をつくる魔女というよりフキの葉の下に寝転ぶコロポックルのようで、ああ日本の婆さまは、精霊に近いんだと感じた。この感覚は、おそらく間違いない。 日本のあちこちに、カヲルさんのような婆がきっとまだたくさんいる。心細く未来を歩くわたしたちに、そのことは何より頼もしい。教わることは、果てしなく多い。もしまたそんな婆さまに出会えたら、わたしはこれからも躊躇なく飛びつき、教わりたいと思っている。

 

写真:高木あつ子
文:しまざきみさこ

 

関連書籍

『片品村のカヲルさん 人生はいーからかん』

『人生はいーからかん』書影

編者:カヲル組
定価:1500円+税
仕様:四六判、112頁(内16頁カラー)
ISBN 9784909753038
発行:ヘウレーカ

amazon.co.jpで見る

 

須藤カヲルさん(92歳)が12年続けている人生相談(季刊『うかたま』掲載)が、本になりました。 恋愛、人づきあい、仕事、子育てなどの悩みに対する回答から、「面白い」「癒される」「役に立つ」ことばをピックアップし、その際のカヲルさんとのやりとりも収録。カヲルさんの日常をとらえた写真とともに、「いーからかん」(カヲルさんの口癖で、いいかげん、よい塩梅の意味)に楽しめるつくりになっています。

全国の書店で4月25日頃から販売予定(書店にない場合はご注文をお願いします)。
※本書のお問い合わせは、heureka@heureka-books.com(担当・大野)まで

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タケジロウさんの沖縄戦 https://safar-magazine.com/takejiro_okinawa_battle/ https://safar-magazine.com/takejiro_okinawa_battle/#respond Fri, 23 Nov 2018 04:32:51 +0000 http://safar-magazine.com/?p=367 沖縄県北谷町
Chatan Town, Okinawa, Japan

日系二世としてハワイで生まれ、両親の故郷である沖縄で育ち、16歳でハワイに戻ったのち、アメリカ軍の通訳兵として沖縄戦を体験した人がいます。タケジロウ・ヒガ(比嘉武二郎)さん。4年前の2014年12月、当時91歳のタケジロウさんに話を聞く機会に恵まれました。太平洋戦争で国内唯一の地上戦となり、終戦直前の3カ月で約20万人もが犠牲になった沖縄戦。逃げ場を失って集団自決に追い込まれる民間人に、タケジロウさんはウチナーグチ(沖縄方言)で投降を呼びかけたといいます。タケジロウさんら通訳兵の呼びかけで命をつないだ人は、沖縄で2,000人とも3,000人ともいわれています。
(写真:大城亘、文:根本聡子)

Born in Hawaii as second-generation Japanese-American, Takejiro Higa was grown up in his parents’ hometown of Okinawa and moved back to Hawaii when sixteen years old. He volunteered for an interpreter of the US military and experienced the Battle of Okinawa. In 2014 we had an opportunity to hear about his story, when he was 91 years old. Okinawa was the only battle field in Japan during the Pacific War and 200 thousand people were killed in three months. Takejiro called for a surrender in Okinawa dialect to the civilian to come out of the caves they were hidden. It is said that in Okinawa 2,000 or 3,000 people were saved their lives by the interpreters’ calling.
<photographs by Wataru Oshiro, text by Satoko Nemoto>

 

排日運動が高まるなか、ハワイから沖縄へ

タケジロウさんに会ったのは、那覇から車で30分ほど北に行った北谷(ちゃたん)だった。国道58号線の陸側に延々と続く普天間飛行場のフェンスを過ぎると、海側に大きな観覧車が見えてくる。多くの飲食店や雑貨店が集まり、地元の人たちや観光客で賑わうアメリカンビレッジだ。58号線の先には嘉手納基地が広がっている。

アメリカンビレッジにあるホテルのロビーで話を聞き、海岸で撮影したいと願い出ると、タケジロウさんは快諾してくれた。あたたかい日差しが降り注ぐおだやかな冬の海。ところが、さっきまで笑顔だったタケジロウさんの表情は次第に曇る。

タケジロウさん
「(沖縄戦のときにアメリカ兵として)上陸したのはここよりもう少し北。海岸の景色はずいぶん変わってしまったね。でも山の形は昔と同じ。あのときは艦船の甲板からこの山を見ていたよ」

防波堤に腰かけてあたりを眺めながら、タケジロウさんはどこか遠くを見ているようだった。

 

おだやかでやさしい表情が印象的なタケジロウ・ヒガさん。沖縄に来たら毎日沖縄そばを食べていると笑う。

 

タケジロウ・ヒガさんは1923(大正12)年、ハワイのオアフ島で生まれた。両親は沖縄県北中城村(きたなかぐすくそん)からの日系移民一世。タケジロウさんには5つ年上の姉と2つ年上の兄がいる。ハワイの日系一世はサトウキビやパイナップルのプランテーションで、過酷な労働に従事することが多かった。アメリカ人からは日本人として、日本人からは沖縄出身者として、言葉や生活習慣の違いから差別を受けながらも、苦労を重ねて異国の地に根を下ろそうとしていた。

しかし、日本が富国強兵のスローガンを掲げて欧米列強に迫ると、日系移民が多いアメリカ西海岸やハワイでは日本人排斥運動が高まった。タケジロウさんが生まれた翌年には、アメリカ国内でいわゆる“排日移民法”が制定。アメリカに住む日系人が窮地に立たされるなか、父は妻と3人の子どもをいったん沖縄に帰すことを決意する。3年後に父は家族を迎えに来たが、肋膜炎を患っていた母とまだ5歳で母の手が必要なタケジロウさんは沖縄に残った。

タケジロウさん
「母と一緒に祖母のいる島袋(しまぶく)へ移り住んだのは私が2歳のときです。喜舎場(きしゃば)尋常高等小学校(現・村立北中城小学校)に進んだ12歳の頃、ハワイの父、島袋の祖父と祖母、母が相次いで亡くなり、その後は叔父に育ててもらいました」

「島袋は大きい集落で生徒も多かった。でも学校からいちばん遠くて、石ころだらけの山道を裸足で歩いて通いました。カバンを買うお金なんかないから、風呂敷を持ってね。家が貧乏な1年生と2年生は給食がありました。(学年が)上になると給食はないから、芋を手ぬぐいに入れて家から持っていく。でも、食べものを持っていない子もいましたね」

芋というのはサツマイモのこと。タケジロウさんが子どもの頃は、台湾の形に似ていることから台湾芋と呼んでいたという。ふだんの食事は茹でたサツマイモと味噌汁、叔父の畑で作る野菜や芋の葉。どこの家でも豚を飼っていて、一年に一度だけ屠り、塩漬けにして少しずつ食べた。ときたま食卓に上る豚肉は大変なごちそうで、「おいしいどころじゃないよ!」とタケジロウさんは笑う。

 

「(フールと呼ばれる)沖縄のトイレは豚小屋の上。座って腰を下ろしたら、豚が下でペロペロって(人糞を食べる)。お尻までは届かんよ(笑)」とタケジロウさん。

 

学校での思い出をたずねると方言札の話をしてくれた。明治維新後の日本では共通語としての標準語が奨励された。とくに沖縄県人が他府県人から蔑視される原因のひとつが方言だったため、沖縄では方言撲滅運動にまでエスカレート。学校では罰則の「方言札」が使われた。

タケジロウさん
「学校で方言を使ったら、先生から方言札を首にかけられました。ほかの誰かが方言を使うのを見つけるまで、ずっと下げてなくちゃいけない。だからね、方言札もらったら誰かを後ろから蹴るのよ。「やらー!(あー!)」って言わせて先生に報告するの。そうすると自分の方言札はとれる(笑)。だから戦後のいまはね、学校で方言を教えてるいうの聞いて私はうれしかったよ。言葉というのはね、どんな言葉でも習ったら、いつかは使いみちがあるかもしれないから」

タケジロウさんが “言葉の使いみち”を実感するのはずっと後、通訳兵として沖縄戦に従軍したときのことだ。だからこそ、学校で強制された方言札は苦い思い出にほかならない。

タケジロウさん
「尋常高等小学校を卒業した後は、収穫したサトウキビを那覇へ出荷したり、叔父の仕事を手伝いました。朝6時にサトウキビを荷馬車に積んで、島袋から那覇まで5時間かけて歩いて行きましたよ。必要なものを仕入れて島袋に帰ると深夜。馬の世話をして寝るのは2時でした。サトウキビの収穫時期はこれが毎日。ほかの時期も仕事はたくさんありました」

 

ジェスチャーを交えながら日本語と英語で話す。日本語を忘れないように新聞を読んでいるといい、沖縄の基地問題にも関心が高い。

 

 

日米開戦でアメリカ軍の通訳兵に志願

暮らしは貧しく、仕事も楽ではなかったが、当時の沖縄は皆が貧しく、特別不満に思うわけではなかった。ところが、タケジロウさんはあるきっかけで、ハワイに住む姉に手紙を書いてハワイに呼び戻してもらう。

タケジロウさん
「私がハワイに戻ったのは昭和14(1939)年、16歳のときです。日本では日中戦争が激しくなっていて、16〜19歳になる青年をどんどん満州に送り込んでいました。いわゆる満蒙開拓青少年義勇軍というやつ。それに引っかかって戦争にとられては大変だと、私は逃げるようにしてハワイに戻ったのです」

排日運動がますます高まるハワイへ渡るには、多額の旅費以外にも、近い親族による手続きが必要になっていた。そのため、10年以上会っていない姉に頼らざるを得なかった。沖縄では標準語を話すように強制されて苦労したが、ハワイでは英語が話せずに苦しんだ。働きたくてもレストランの皿洗いぐらいしか仕事がない。タケジロウさんはハワイの小学校に通い、放課後も日本語学校に通って勉強したという。

 

1939年、沖縄からハワイへ戻る船中にて。前列右端がタケジロウさん。

 

タケジロウさん
「ところがハワイに戻って2年後の1941年、12月7日(ハワイ時間)に真珠湾攻撃があって日米戦争(太平洋戦争)が始まった。考えられないことが起こってしまいました。日系人に対する風当たりは強まるばかりで、日系人の指導者層や帰米二世(アメリカで生まれ、日本で育ち、アメリカに戻った日系二世)を中心に、敵性国人として日本人収容所へ送り込まれていました。私は沖縄に14年も住んでいた帰米二世です。収容所へ連行される可能性がありました」

1943年2月には日系二世兵の募集が始まり、応募が殺到した。後にヨーロッパ戦線での勇敢な戦いで名を馳せる442連隊戦闘団だ。日本人の心を持ち続けた日系一世と違い、日系二世は生まれたときからアメリカ国籍。日系人の誇りと生活を守るためには、命をかけてアメリカへの忠誠心を示すしかなかった。でも、タケジロウさんの心境は複雑だった。日本が軍部ファシズムの道を突き進んでいた時期に、皇国思想と軍国教育を叩き込まれたタケジロウさんにとって、日本の敵国であるアメリカの兵士になる決心はなかなかつかない。

タケジロウさん
「ほかの二世たちが次々に志願していくなかで、自分だけが取り残されそうな気がしていました。兄も442連隊に応募しました。私が応募しないと怒る兄に対して、『私は満蒙(開拓青少年義勇軍)に送られたくなかったからハワイに戻ったんだよ。いまさら軍に入れって、ちょっと無理じゃないか』とケンカ腰になりました。でも、志願しなかったら敵性として収容所にぶちこまれるかもしれない。仕方なく志願しました」

ところが、兄は受かったものの、タケジロウさんは英語がうまく話せなかったために落とされた。「正直なところほっとした。でも、敵性として疑われているのではと不安にもなった」というタケジロウさんに陸軍省から手紙が届く。

タケジロウさん
「『日本語を話せる通訳兵を募集するが、君はまだアメリカのために尽くす気があるか』というものでした。志願するか非常に悩みました。日本語の通訳兵といえば、太平洋戦争に巻き込まれるのはわかりきっています。戦場で同級生や親戚の人に会ったらどうすればいいのか。悩むうちにまた手紙が来て、ホノルルのあるビルに呼び出されました。FBIと軍の将校の面談があり、日本語の文章を英語に翻訳させられました。その数週間後、荷物を持って来るように言われて入隊となりました」

タケジロウさんが入隊したのはMIS(アメリカ陸軍情報部)。入隊後はミネソタ州の陸軍情報部日本語学校(MISLS)で日本語の訓練を受け、日本の兵語や地理などを学んだ。英語がまだ十分ではなかったため、夜10時の消灯後もトイレにこもって勉強を続けたという。

 

ミネソタ州での訓練後、生きて帰れるかわからないからと記念に撮影したポートレート。

 

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みんな子どもだった 〜鶴岡睦子さんの創作人形〜 https://safar-magazine.com/dolls_mutsuko_tsuruoka/ https://safar-magazine.com/dolls_mutsuko_tsuruoka/#respond Fri, 02 Nov 2018 06:46:28 +0000 http://safar-magazine.com/?p=333 千葉県いすみ市大原
Oohara, Isumi City, Chiba, Japan

遊びに夢中な子、全身で大笑いする子、ふくれっ面の子、あくびしている子。写真に収められた子どもの人形は、表情も仕草もひとりひとり違っていて、いまにも動き出しそうに見えました。人形の作者は81歳になる千葉在住の女性。退職後に独学で創作を始めたといいます。表情豊かな人形と作者の鶴岡睦子さんに会いに、千葉県いすみ市大原の自宅を訪ねました。
(写真:今井聡志、文:根本聡子)

The children dolls in the photographs are various in expression and gesture, and they are likely to start moving now. The dolls are created by a woman who is  81 years old living in Oohara of Isumi City, Chiba Prefecture, and she taught herself the creation after retirement. We went to see her and her dolls in the end of October.
<photographs by Satoshi Imai, text by Satoko Nemoto>

 

いろいろな表情、いろいろな仕草の子どもたち

房総半島の東側、太平洋に面したいすみ市は、海と田んぼが広がる豊かな地。ローカル線のいすみ鉄道が走り、IターンやUターンの移住者も多い。大原(旧大原町)には豊富な海の幸が揚がる漁港があり、なかでも伊勢エビは日本一の水揚げ量を誇る。

鶴岡睦子さんの自宅を訪ねると、背筋がピンと伸びた女性が出迎えてくれた。艶のある白髪のショートヘアにピンクのシャツとスリムジーンズを着こなし、てきぱきと動くその姿は年齢を感じさせない。玄関先にある小さなギャラリーへ案内してもらうと、高さ15cmほどの人形が左右の棚に展示され、表情や動きが映えるように照明が当てられていた。虫捕りをする子たち、ラジオ体操をする子たちなど、数体でひとつの作品になっているものもある。

睦子さん
「人形がよく見えるように展示したくて、最近この小屋(ギャラリー)を建てました。これまで200体ぐらい作っているので、展示はときどき入れ替えています。数体でひとつの作品になっているものは、最初からそうするつもりではなくて……最初に作った子からアイデアが広がって、こんな子もいたらいいな、あんな子も作ろうかな、と一体ずつ増えていったんです。粘土がひとり歩きしてくれて、次から次へとできてしまった感じですね」

 

おいしそうに牛乳を飲む子たち。ごくごくと喉を鳴らす音が聞こえてきそう。おそろいの洋服もかわいらしい。

睦子さん
「これはいちばん右の女の子から始まりました。こういう格好で牛乳を飲んでる子がいたんですよ。この子ができあがってから、夢中になって飲む子などを足していきました」

 

指をくわえて見ている女の子は仲間に入れてほしいのだろうか。でも、男の子たちはトンボを捕るのに夢中。切り株に乗っている小さな子は、トンボを見つめるあまり寄り目になっている。

睦子さん
「最初に作ったのはかわいい仕草の女の子。真ん中の男の子はふたりとも長靴を左右逆にはいているんですよ。そういう子いるでしょう? 親が買い与える靴はだいたい大きめだから、左右を逆にはくと靴の中で足がピタッと止まるんですって(笑)。ちゃんと理屈があるのよね」

 

夏休みの朝のラジオ体操。まだ眠そうな子、張り切っている子、おしゃれなワンピースの子、いろいろな子が集まっている。睦子さんの人形は懐かしい昭和の雰囲気もあるけれど、時代は特定していないという。

睦子さん
「子どもの頃の自分をモデルにすることはないですね。でも、真ん中であくびをしている子は私に似ているかもしれない。私の家は貧乏だったので、こんなサンダルがほしかったんですよ(笑)。ワンピースの花柄もひとつずつ手で描きました」

 

粘土と出会って子どもへの愛情が形になった

睦子さんは昭和12(1937)年に大原で生まれた。9人きょうだいで、睦子さんは6人姉妹のいちばん下。一家はお寺の土地に住んでいた。子どもの頃は境内の大きな木に登り、お祭りをいちばん前で眺めたという。仕事は神奈川・鶴見のスーパーマーケットで広告宣伝に携わり、50歳を過ぎて大原に戻って結婚。現在は2つ年上のご主人とふたりで暮らしている。

睦子さん
「スーパーを辞めなきゃいけなくなって、それまで仕事がすごく大変だったから、これからは好きなことをしようと思ったの。私は子どもを見るとじーっと観察しているぐらい子どもが好きなんです。それに、自分が子どもの頃はトウモロコシのひげを編んで髪の毛を作って人形にしたり、姉のストッキングに布団綿を詰めてつるし人形を作ったり、手作りするのも好きでした」

「だから、紙粘土で人形を作る方法を知って、独学で子どもの人形を作り始めました。子どもの表情は変わるのが早いから、素人写真ではいい瞬間を撮れないんですよね。でも、人形でなら再現できる。60代と70代の20年ぐらいはずっと人形を作っていましたね」

睦子さんに人形の作り方を説明してもらった。まず紙粘土を丸めた頭部に、手の指や爪や彫刻刀で顔の骨格を作ってから、晒(さらし)の木綿布をかぶせる。次は頭部に竹箸の芯を差し込み、紙粘土で胴体と手足を作って服を着せる。服は縫うのではなく、胴体に晒を巻き付けて服の形にカットし、液状粘土を付けながら整えていく。髪の毛を付け、アクリル絵具で色を着けて完成。ただし、睦子さん自身が考案したこの作り方は、集中力を要する細かい手作業の連続で、80歳を過ぎてからはやめてしまったという。

 

睦子さん
「土台(骨格)がきちんとできれば、顔を描くのはそう大変じゃないんです。自然に手が動くんですね。でも、土台がうまくいかないときは顔もうまく描けません。外国人の子どもの人形を作ったこともありますが、難しかったですね。ふだん自分が見ている子じゃないとうまくできないんです」

 

肌、目鼻、服の柄、靴など、すべてアクリル絵具で描かれ、服の色落ちや汚れも細かく表現されている。

睦子さん
「アクリル絵具を使うのは着色がいいから。服は晒と液状粘土で作ると、シワや動きがきれいに出るんです。こういうことも全部、失敗を繰り返しながら自分で考えました」

 

おしゃまで“ふとべ”な女の子の世界

睦子さんが作る人形は、小学校に上がる前の5〜6歳の子どもたちが多い。人形の正面だけでなく斜めから見たり、足下から見上げたり、眺める角度を変えると、また違う表情を発見する。「どの角度から見ても大丈夫なように作っている」と睦子さんはいう。男の子と女の子が一緒に遊ぶ風景もほほえましいが、女の子だけ、男の子だけの世界も面白い。女の子同士には駆け引きや意地悪の感情も匂わせる。

睦子さん
「私が子どもの頃は、都会から疎開してきた子に寄っていったりしたわね。何か新しいものを持っているんじゃないかって(笑)。都会から来た子に飴玉をもらって、その子はうちの水がおいしいって言っていた。昔は子どももそうやって生き抜いたんですよ。貧乏だったからそういう知恵はありましたね」

 

睦子さん
「この子はチョコレートを独り占めして食べているの。欲張りの姪っ子がモデルです。昔からお使いに出すとお金を全部使っちゃうような子で、大人になったいまも変わっていません(笑)」

 

「この子たちは小競り合いしてるの。道端で丸くなってそうやっている子たちがいたんですよ。何があったのか知らないけれど、ふたりともやさしそうに見えないよね(笑)。上総(かずさ)弁で”ふとべ”っていうの。意地悪という意味です」

 

「ぐっすり眠っている赤ちゃんは、たまたまうまく描けたんです。小さいほうの女の子がおぶっている人形は、昔こういう人形を姉が持っていたなと思い出して作りました。この2体は着物の柄を描くのが大変だったかな。表情も見る角度によってずいぶん違いますよ」

 

やさしくてたくましい男の子の世界

”ふとべ”な女の子の人形に対して、男の子の人形は純朴でやさしい雰囲気。遊びに夢中になっている男の子の姿は昔も今も変わらない。睦子さんのお兄さんのひとりはガキ大将だったという。

睦子さん
「兄は腕っぷしが強くて、面倒見がよくて、妹にとっては”困ったときの神頼み”的な存在でしたよ。そういえば、ガキ大将っていまはもういないわね」

 

カバンを投げ出してビー玉遊びに熱中する子どもたち。ボーダーやタータンチェックの服の柄も凝っている。

睦子さん
「洋服の柄はもっとシンプルにすればよかったなあ。人形を作り始めた頃は、柄に凝ったり、濃い色を使ったりしていました。でも、子どもの人形には淡い色、シンプルな柄が合うんですよ」

 

大原漁港で毎年秋に行われる「はだか祭り」の1シーンもある。

睦子さん
「子どもはお神輿をかつがせてもらえないから、歌をうたうんです。美男子を作ってみたけど面白くなかった(笑)。やっぱり子どもはちょっと崩れた表情がかわいいですね」

 

「川遊びをして全身が汚くなった男の子たちは、大好きな『トム・ソーヤーの冒険』をヒントに作りました。今日はぜんぜん魚がとれなかった、やんなっちゃった、っていう顔です。やんちゃだった兄に似ているかな?」

 

何がおかしいのか、全身で大笑いしている男の子たち。「ただ笑っている子どもを作りたかった」と睦子さん。眺めるだけで幸せな気持ちになる。

睦子さん
「昔はみんな食べることが大変だったでしょう。親は子どもに食べさせることがいちばん大事で、子どもは大人になったら自分で食べられるようになればいい。そういう育て方です。私は家は貧しいし、きょうだいが多くて大変でした。でも、楽しいことも多かったですね。スーパーの仕事も厳しかったけれど、いまは好きなことをやって暮らしている。とても贅沢だと思っています。私の人形を見てくださる方に、子どもだった頃を思い出してもらえるとうれしいですね」

 

鶴岡睦子さん
1937(昭和12)年、千葉県いすみ市大原生まれ。子どもが好き、手仕事が好きで、仕事をリタイアした50代より独学で子どもの創作人形を製作。自宅敷地内のギャラリーは見学可(電話0470-62-3127へ要予約)。趣味は登山、スキー。

 

撮影:今井聡志
企画:しまざきみさこ
文:根本聡子

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トカラ列島のレントゲン便⑤ トカラ列島の旅情報 https://safar-magazine.com/tokara_islands_5_info/ https://safar-magazine.com/tokara_islands_5_info/#respond Wed, 24 Oct 2018 03:13:27 +0000 http://safar-magazine.com/?p=311 鹿児島県十島村、トカラ列島
Tokara Islands, Toshima Village, Kagoshima, Japan
十島村営の定期船「フェリーとしま2」の施設、トカラ列島に関するWebサイトや書籍の一部を紹介します。トカラ列島の情報はとても少なくて、旅行ガイドブックでもほとんど見かけませんが、数少ないその情報にはトカラへの愛情があふれていました。トカラ列島に行く予定がある方、行ってみたい方は参考にしてみてください。
(文:根本聡子)
定期船「フェリーとしま2」
客室は一等、指定寝台、二等の3種類。今回の旅で予約したのは指定寝台で、2段ベッドが2つ横並びになった客室を3人で利用した。ベッドのサイズや寝心地は不足がなく、荷物が置ける共用スペースも十分。二等はいわゆる雑魚寝だが、一人ずつスペースが仕切られているので、乗客が少なければかえってくつろげるかもしれない。
レストランにはカレーライスや焼きそばなどの簡単なメニューがある。食べ物を持ち込んだり、寝転んでテレビを見たり、宴会したり、ダイニング兼リビングルームとして利用されていた。自販機はソフトドリンク、菓子パン、カップラーメン、スナック菓子、ビール、アイスクリームなどひととおり。食べ物を持参しなくても困ることはない。
その他、船内にはシャワー室、キッズルーム、授乳室、診療所などが揃っている。通路のソファやデッキの椅子など、客室やレストランのほかにも居場所があるのがよかった。Wi-Fiは無料で利用できるが、「動画など大容量のデータ通信を行うと、本船全体のWi-Fiが止まることがある」との注意書きあり。実際、あまり安定していなかったので、必要最低限の利用にとどめるのがよさそうだ。
共用スペースの内装は明るい色合い。壁に魚や花の絵が描かれている。
2階の通路にはソファが置かれ、のんびりできるスペースになっている。
キッズルームの壁にはかわいらしいボゼやトカラ馬が描かれていた。
客室と乗客が利用する諸施設は1階と2階にある。乗客の乗り降りは1階から。
指定寝台の2段ベッド。枕元に小さな網棚とコンセントが備わっている。
レストランは手前がテーブル席で奥が畳敷き。窓が広くて海の見晴らしもよい。
レストランの照明はトカラの名物がモチーフ。ハイビスカスやボゼもあった。
自販機は数台あり、品揃えが充実している。ビールはアサヒスーパードライ。
トカラ列島の情報入手先
十島村役場公式サイト
地図、みどころ、宿泊施設、釣りポイント、お祭りなど、有人各島の基本的な観光情報がまとめられている。十島村の気象情報も便利。トカラ列島には飲食店がなく、売店があるのは一部の島のみ。民宿は1泊3食付きで各島に数軒ある。島内にレンタカー、レンタバイク、レンタサイクルは原則的にない(と考えたほうがよい)。ただし、フェリーとしま2を運航する中川運輸にレンタサイクルが2台あり、前日までに予約すれば鹿児島港で借りることができる(2018年5月14日現在)。
十島村役場公式サイト>フェリー情報
フェリーとしま2の運航スケジュール、料金、運航状況はここでチェックしよう。鹿児島港にはフェリー乗り場が複数あるので注意。フェリーとしま2は鹿児島本港南埠頭を出港する。また、鹿児島本港から徒歩5分ほどの場所に、十島村役場、トカラ列島の物産品が買える「トカラ結(ゆい)プラザ」がある。
かごしま遊楽館 観光案内コーナー
東京・有楽町の観光案内コーナーには、トカラ列島のパンフレットも置いてある。紙の地図がほしい場合はこちらへ。島内での交通などを尋ねると、その場で鹿児島の十島村役場に問い合わせてくれた。
 
トカラ列島の参考文献
『吐噶喇列島 〜絶海の島々の豊かな暮らし〜』 斎藤潤
島旅の本を何冊も出しているフリーライターの斎藤潤さんが、いちばん好きだというトカラ列島を詳しく紹介した一冊。車がなかった時代の運搬の苦労、移住してきた若い世代の奮闘、ボゼの仮面が作られる様子、近年まで行われていた風葬の習俗など、同じ日本とは思えないエピソードの数々が綴られている。口之島の野生牛を地元で「ところうし」と呼ぶくだりには、じんわりとあたたかい気持ちになった。(光文社新書、2008年8月15日発行)
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『吐噶喇 〜トカラの遠い空から』 瀬尾央(ひろし)
著者は自ら操縦桿を握る航空撮影のプロフェッショナルで、航空に関わる社会教育や調査研究も手がけている。十島村の上空写真を撮影したことがきっかけでトカラと縁ができ、トカラを広く知ってもらいたいと本書を著した。1992年に発行された本だが、空撮写真が満載で眺めて楽しく、島の祭事や人々の暮らしぶりがリアルに伝わってくる。空撮だけでは飽き足らず、著者はトカラの美しい海を撮るためにダイビングにも挑戦。空から海からトカラ列島を俯瞰で眺めるスケールの大きさは飛行機乗りだからか。絶版になっているので中古品または図書館でぜひ(世田谷区立図書館にはありました)。(山と渓谷社、1992年6月1日発行)
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『トカラ列島 秘境さんぽ』 松島むう
島旅が好きなイラストエッセイストによるトカラ紀行で、トカラ列島から帰ってきてから読んだ。レントゲン便の旅では島のおいしいものを一度も口にできず、乾きものや缶詰やインスタント食品ばかり食べていたので、島の魚や料理のイラストに見入ってしまった。巻末に旅の便利帳が付いていて、ガイドブックとしても役立つ。(西日本出版社、2018年7月26日発行)
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『生きていく民俗 〜生業の推移〜』 宮本常一
第1章「くらしのたて方」に宝島の自給社会が書かれている。民俗学者である著者が宝島へ渡ったのは1941(昭和16)年。かつては年に一度の年貢船を出す以外に島外との交通はなく、貨幣が流通することはほとんどなく、職業の貴賤や階級の上下もなかった(でも琉球から来た人への差別はあった)などの記述がある。本書ではほんの5〜6ページしか割かれていないが、強烈な印象に残り、トカラ列島に興味を持つきっかけになった。(河出文庫、2012年7月20日発行)
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(おわります)
 
文・船内写真:根本聡子
旅行した日:2018年5月14日〜17日

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トカラ列島のレントゲン便④ 小宝島・宝島 https://safar-magazine.com/tokara_islands_4_akarajima/ https://safar-magazine.com/tokara_islands_4_akarajima/#respond Mon, 22 Oct 2018 02:42:44 +0000 http://safar-magazine.com/?p=262 鹿児島県十島村、トカラ列島
Tokara Islands, Toshima Village, Kagoshima, Japan

旅の3日目は小宝島と宝島へ。火山活動によって造られたこれまでの険しい島々と違って、サンゴ礁が隆起してできたこの2つの島は平地が多く、南国らしいおだやかなたたずまいです。岩山も海岸も琉球石灰岩に特有の明るい色合い。悪石島と小宝島の間には動物の分布境界を示す渡瀬線が引かれ、トカラ列島の有人島のうち小宝島と宝島だけにハブが生息しています。夕方、奄美大島の名瀬港でトカラ列島の旅は終わりました。
(写真:武藤奈緒美、文:根本聡子)

On the third day we visited Kodakarajima and Takarajima which mean treasure islands. These two islands had been created by coral reefs rising out of the Ocean and they have the flat grounds and the rocks of limestone. That topography makes a calm and bright atmosphere, being much defferent from other islands of Tokara created by volcanic activities. There is the border of animal distribution “Watase-line” between Akusekijima and Kodakarajima, and poisonous snake “Habu” inhabit in Kodakarajima and Takarajima. We finished our trip at Naze in Amamiooshima.
<photographs by Naomi Muto, text by Satoko Nemoto>

 

小宝島

中之島より南の島々は港が小さかったが、小宝島の港はさらにこぢんまりしていた。鹿児島本土からトカラ列島への定期船が就航したのが1933(昭和8)年。当時は定期船が接岸できる島はなく、沖合に停泊した船に艀(はしけ)で渡り、荒波にのまれる危険を冒して人や荷物を乗り降りさせていた。なかでも小宝島は1990(平成2)年に定期船が接岸できるようになるまで、日本の有人島で最後まで艀作業を行っていたという。

小宝島の入港は8:20。桟橋に降り立つ乗客に、「ロープに近づかないで!」「車が通るからよけて!」と注意を促す怒声が飛ぶ。ピンと張られた係留のロープがはずれると大ケガをすると言われて、下船すると早々に港を離れた。振り返ると、船から降ろしたコンテナも防波堤の上にのせているほど桟橋は狭い。

タラップを降りるとすぐ防波堤に突き当たるほど小宝島港は小さい。

小宝島は洋上から見ると妊婦が横たわっている姿だそうで、“子宝に恵まれる”という言い伝えもある。

 

小宝島は周囲4kmの小島で、30分ほどで一周できるらしい。でも、出港までは1時間20分しかない。しかも、船に戻る時間は出港15分前だったのが、遅れて来る人がけっこういたからか、そのうち出港20分前になり、小宝島では出港25分前に決められていた。無理して一周するのはやめて、集落までゆっくり歩くことにした。

平家の隠れ家といわれる大岩屋を右に折れると、海側の一帯に広々とした草地が広がる。これまで見てきた険しい地形の島々から一転、隆起サンゴ礁でできた小宝島は平坦な道が続いていた。長い年月をかけて侵食された奇岩があちこちにそそり立ち、なかには神の名が付けられた神聖な岩もある。港に近いこの草地は南風原(はえばる)牧場で、たくさんの牛が放牧されていた。ここから出荷される仔牛が全国各地でブランド牛になる。

巨大なマッシュルームのような奇岩が草地にぼつんとたたずむ。

姿のよい牛たち。左端に見える奇岩はうね神と呼ばれている。

南風原牧場の厩舎を見せてもらうと、仔牛にじっと見つめられた。

これから出荷する仔牛。生産者によると生まれて8カ月だそう。

左にうね神、中央に赤立神が見える。どちらも小宝島のシンボル的な奇岩。

 

南風原牧場を過ぎて集落への道を進む。集落の入口に小宝神社があり、道沿いにハイビスカスの花が咲いていた。住民健診の最中なので人の気配はなく、緑に囲まれた静かな通りをのんびり散策する。

すれ違った村役場の職員から、藪の中に入らないように注意された。トカラ列島は温帯と亜熱帯、大和文化と琉球文化の境目にある地域だが、動物の分布境界線も悪石島と小宝島の間にあり、小宝島と宝島だけにハブが生息している。奄美諸島のハブほど毒性は強くないそうだが、道の端を歩かないように気をつけた。

海中のサンゴ礁が隆起して、長い時間をかけて風化。琉球石灰岩は独特の景観を造り出す。

小宝島は亜熱帯気候。ハイビスカス、アダン、ソテツなどが自生する。

さまざまな種類と色のハイビスカスの花が風に揺れていた。

鳥居の真ん中に小宝神社の文字が見える。手入れが行き届いた境内。

集落の軒先で育てられている花々も目を楽しませてくれる。

島の中央に盛り上がった竹の山はわずか102.7mの高さ。小宝島は水不足に悩まされてきたといい、空撮写真を見ると頂上付近に貯水池が残っている。

 

奇岩の赤立神が立つ海水浴場までは行けず、近くの海岸をぶらぶら歩きながら港へ戻る。9:40に小宝島を離岸。「本船は宝島へ向けて出港いたしました」と心躍るアナウンスが流れた。

島の周辺は隆起サンゴ礁の浅瀬だが、沖へ出ると600mぐらいの深さまで落ち込む。船上から眺めると海の色が急に濃くなるのがわかる。

小宝島を出港。エンジンで海水がかき回され、クリームソーダの色に変わった。

 

小宝島メモ
面積:0.98 km2 周囲:4.74 km 最高点:102.7m 人口:53人
みどころ:うね神、赤立神、牛牧場、大岩屋(平家のかくれ家)、外ばんや・ばんや、艀(はしけ)、湯泊温泉
注意点:トカラハブ

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トカラ列島のレントゲン便③ 諏訪之瀬島・平島・悪石島 https://safar-magazine.com/tokara_islands_3_akusekijima/ https://safar-magazine.com/tokara_islands_3_akusekijima/#respond Thu, 18 Oct 2018 02:30:09 +0000 http://safar-magazine.com/?p=209 鹿児島県十島村、トカラ列島
Tokara Islands, Toshima Village, Kagoshima, Japan

「フェリーとしま2」は口之島と中之島を巡った後、さらに南下して諏訪之瀬島、平島、悪石島に寄港しました。鹿児島に近い口之島と中之島に比べ、諏訪之瀬島より南西の島は港も小さく、次第に離島感が増していきます。2日目の夜は悪石島のやすら浜港に停泊。島の民宿は部屋数が限られているため、乗客の多くは船中泊となります。
(写真:武藤奈緒美、文:根本聡子)

After Kuchinoshima and Nakanoshima, “Ferry Toshima 2” arrived at Suwanosejima, Tairajima and Akusekijima.  The ports of the islands in the southeast of Suwanosejima are much smaller than those of two islands close to Kagoshima,  and I felt an isolated atmosphere about the farther islands. On the second day we stayed overnight on the ship at the port of Akusekijima.
<photographs by Naomi Muto, text by Satoko Nemoto>

 

諏訪之瀬島

中之島を出港した「フェリーとしま2」が次に向かったのは、30km先にある諏訪之瀬島。トカラ列島では中之島に次いで大きな島だが、地図を眺めると道路が通っているのは島の南部だけ、しかもごく狭い範囲で、島の中央は「御岳(おたけ)火口付近は火山活動のため立入禁止」となっている。

標高799mの御岳は過去に大噴火を繰り返してきた活火山で、いまも噴煙を上げ続けている。1813(文政10)年の爆発的な噴火ではほとんどの人家が消滅し、全島避難によって諏訪之瀬島は無人島になった。およそ70年後の明治初期に来島した奄美大島出身の藤井富伝らが、困難と苦労を重ねながら再び入植した歴史がある。現在もなお赤黒い溶岩流や火山堆積物が噴火当時の姿を残していて、島全体が緑に覆われたこれまでの島々とは違う様相を呈している。

船が近づくと、諏訪之瀬島の荒々しい岩肌が迫ってくる。

接岸する前、海岸付近に乙姫の洞窟が見えた。

 

諏訪之瀬島の入港は11:05。雲ひとつない青空の下、強い日差しが降り注いでいた。諏訪之瀬島には東岸と西岸に2つの港があり、天候によって使い分けている。この日は東岸の切石港に入港した。これまでの2島に比べて、諏訪之瀬島の港はとても小さい。桟橋が狭くて居場所がないので、下船するとすぐに港を離れた。

南下するにつれて海の色が明るくなってきた。

島の南東にある切石港に入港。乗客が下船すると小さな港が人でいっぱいになる。

切石港は桟橋の幅が狭く、ぼんやり立っていると港の作業の邪魔になって危険。

 

切石港から北へ、防波堤の上を歩いて、船から見えた乙姫の洞窟へ行ってみた。竜宮城の乙姫が海から上がって物思いにふけった洞窟といわれている。洞窟の中はひんやりして、暑さをしのぐのにちょうどいい。天井からぽたりぽたりと水滴が垂れてくる。上を向いて口で受け止めようとするが、なかなかうまく落ちてくれない。洞窟の中からは切石港と海が望め、明暗のコントラストが美しかった。

2つの港がある島の南部は低木で覆われ、ところどころにゴツゴツした岩が露出している。

乙姫の洞窟の入口。道らしい道はなく、人の踏み跡をたどっていく。

洞窟の中は涼しい。岩壁のすきまにシダ類が根を張っている。

ヤギの落とし物が転がる洞窟の周辺に、清涼な香りを放つ草がまるで臭い消しのように群生していた。

 

諏訪之瀬島の停泊時間は1時間40分と短いため、あまり遠くへは行けない。乙姫の洞窟からいったん切石港へ戻り、その先のナハ浜を目指すことにした。上り坂の舗装道路をしばらく行くと、ナハ浜へ分岐する道標が立っている。リュウキュウチクがアーチを作る未舗装の道を進み、正面に海が開けたところで時間切れ。もと来た道を港へ引き返した。

ナハ浜へ続く道。舗装道路と違って木陰が涼しい。口之島から悪石島まではハブがいないので、こんな藪の道を歩いても大丈夫。

高台から潮の引いた海を眺める。降りてみたいけれど道がない。

停泊する船の背後は切り立った断崖。山の上のほうは溶岩そのもの。

 

ナハ浜から東のほうへ行くと、諏訪之瀬島のみどころになっている空港跡地(諏訪之瀬島空港)がある。1970年代の後半、ヤマハのリゾート開発によって造られた空港で、1980年代にリゾート計画が頓挫して放置された。現在は緊急用のヘリポートとして利用されている。日本最後の秘境ともいわれているトカラ列島で、そんな空港跡地が観光スポットになっているのが面白い。切石港から往復4.5kmと聞き、空港跡地へ行くのはやめて海を眺めるほうを選んだ。

火山からの噴出物なのか、諏訪之瀬島は浜の砂も黒い。

 

諏訪之瀬島メモ
面積:27.61 km2 周囲:27.15 km 最高点:799m 人口79人
みどころ:乙姫の洞窟、藤井富伝翁の墓、作地温泉、ナハ浜(塩見崎)、空港跡地、マルバサツキ

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トカラ列島のレントゲン便② 口之島・中之島 https://safar-magazine.com/tokara_islands_2_nakanoshima/ https://safar-magazine.com/tokara_islands_2_nakanoshima/#respond Fri, 12 Oct 2018 03:48:52 +0000 http://safar-magazine.com/?p=134 鹿児島県十島村、トカラ列島
Tokara Islands, Toshima Village, Kagoshima, Japan

旅の1日目は飛行機で東京・羽田から鹿児島へ。鹿児島本港からトカラ列島行きの「フェリーとしま2」に乗船しました。船は23:00に出港し、翌朝5:00から夕方にかけて、口之島、中之島、諏訪之瀬島、平島、悪石島の計5島を巡りました。船酔い覚悟でのぞんだトカラ列島行きですが、天気がよすぎて海はベタ凪ぎ。船はほとんど揺れることなく、定刻通りに各島へ入港しました。トカラ列島で初めて降りた島は、鹿児島港の南西200kmにある口之島です。
(写真:武藤奈緒美、文:根本聡子)

On the first day of the trip, I flew from Tokyo / Haneda to Kagoshima and got on “Ferry Toshima 2” from Kagoshima Main Port to Tokara Islands with my friends. Leaving at 23:00, we visited Kuchinoshima, Nakanoshima, Suwanosejima, Tairajima and Akusekijima on the second day. The weather was pretty good all day and the ship entered each island on time as scheduled, almost without shaking. The island we first went down was Kuchinoshima that is located 200km southwest from Kagoshima.
<photographs by Naomi Muto, text by Satoko Nemoto>

鹿児島本港から「フェリーとしま2」に乗船

5月14日(月)。朝9時に十島村のホームページでフェリーの出航を確認。予定通りの出航にほっとする。奄美諸島は数日前に梅雨入りしているが、鹿児島と種子島は晴れマーク。天気は悪くなさそうだ。日中の鹿児島は日差しが強く、気温26度とけっこう暑い。鹿児島本港で乗船券を購入し、十島村役場で下船時に行けるみどころを教えてもらい、スーパーとコンビニで2日分の食糧を調達。鹿児島中央駅近くの屋台村で食事をすませ、温泉に寄ってから鹿児島本港へ戻った。

十島村営の「フェリーとしま2」は4月に竣工したばかりの新造船。総トン数は1,953トンで、先代「フェリーとしま」の1,389トンより4割ほど大きい。旅客定員も200名から297名に増えた。そばで見上げると思いのほか大きくて迫力がある。

真新しく快適なフェリーとしま2。客室は2等客室(雑魚寝)、指定寝台(2段ベッド)、1等客室の3タイプ。レストラン、シャワー室、キッズルームなどもある。

 

乗船は21:00から始まる。時間になると、フェリーターミナルの待合室に三々五々、乗客が集まってきた。住民健診に携わる医療関係者をはじめ、発電所や消防車やNTTの中継施設の点検作業を行う技術者など、仕事で乗船する方々に混じって、一般の旅行者も空いたスペースに乗せてもらう。

旅行者といえば、個人旅行者のほかに、トカラ列島7島巡りのバスツアーが乗っていた。急遽、フェリーの運行会社(が運営する旅行会社)が企画したらしい。さらに、鹿児島テレビのクルーと出演者のボーカルデュオ、NHKの番組スタッフ、鹿児島県の職員の視察グループ(推定)など、さまざまな目的の人たちがこのレントゲン便を利用していたことを乗船してから知った。

仕事の人も遊びの人も楽しそうな出港前のフェリーターミナル。

各島への物資が積み込まれる。郵便の真っ赤なコンテナはどの島の港でも目立っていた。

色とりどりの花も積み込まれていった。

 

フェリーとしま2は定刻の23:00に出港。鹿児島の街明かりが次第に遠のいていく。船は闇の中、桜島の大きな島影を通り過ぎ、小1時間かかって錦江湾を抜けると東シナ海へ出た。

離岸の作業をデッキから眺める。夜風が気持ちいい。

港で手を振ってくれる人に手を振り返した。トカラ列島への船旅が始まる。

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トカラ列島のレントゲン便① プロローグ https://safar-magazine.com/tokara_islands_1_prologue/ https://safar-magazine.com/tokara_islands_1_prologue/#respond Wed, 10 Oct 2018 04:43:27 +0000 http://safar-magazine.com/?p=74 鹿児島県十島村、トカラ列島
Tokara Islands, Toshima Village, Kagoshima, Japan

今年のゴールデンウィーク明けにトカラ列島へ行ってきました。県内の人でさえ「どこにあるの?」と口を揃えるその島々は、鹿児島県の屋久島と奄美大島の間、南北約160kmにわたって点々と連なる絶海の孤島です。鹿児島とトカラ列島を結ぶ定期船は週2便のみ。7つの有人島を一度に巡ろうとすると、けっこうな長期旅行になってしまいます。でも、年1回の住民健診便(通称レントゲン便)に乗船すれば、2日間で7島すべてに上陸することが可能。実際、ほぼ“上陸しただけ”でしたが、幸いにも天候に恵まれ、それぞれに地形や植生が異なる美しい島々を駆け足でまわってきました。
(写真:武藤奈緒美、文:根本聡子)

In the mid of May I visited Tokara Islands in Kagoshima Prefecture. The islands are scattered over a length 160km, between Yakushima and Amamiooshima in East China Sea. Since scheduled ferry service connecting Kagoshima and Tokara Islands is operated only twice a week, it usually takes a lot of days to travel all the islands. However, once a year, there is a special ferry service of medical checkup for residents, which stops at seven inhabited islands in almost two days. Fortunately it was blessed with weather and I enjoyed beautiful islands with different geographies and vegetation.
<photographs by Naomi Muto, text by Satoko Nemoto>

島と島の間は20〜30kmのところが多い。訪れた島が遠ざかり、そのうち次の島影が見えてくる。

トカラ列島の島々はリュウキュウチクやビロウなど、本土とは違う植生に覆われている。

年1回のレントゲン便で7島めぐり

東シナ海の屋久島と奄美大島の間にトカラ列島はある。漢字で書くと吐噶喇列島。全部で12の島からなり、そのうち7つが有人島、5つが無人島だ。有人島は北から、口之島、中之島、諏訪之瀬島、平島(たいらじま)、悪石島(あくせきじま)、小宝島、宝島。行政区分は鹿児島県十島(としま)村で、村役場は島ではなく鹿児島市の鹿児島港近くにある。いちばん鹿児島寄りの口之島から、もっとも奄美大島に近い横当島(よこあてじま)まで、十島村は南北約160kmにおよぶ“日本一長い村”でもある。

 

トカラ列島へは空路がなく、鹿児島港〜有人7島〜名瀬(奄美大島)を結ぶ村営の「フェリーとしま2」が週2便運航する。フェリーは各島に10分ずつしか停泊しないため、いっぺんに7島すべてをまわるのは簡単ではない。いったん島に降りると、次の船が来るまで3〜4日は待たなければならず、東京発着だと最短でも27泊28日の大旅行になる計算。台風などの悪天候によるフェリーの欠航も珍しくないから、実際はもっと日数がかかるだろう。

2018年4月に竣工した「フェリーとしま2」は18年ぶりの新造船。快適に過ごせる設備が整っている。

 

でも、年に一度だけ、7島すべてを2日弱で回れるチャンスがある。それが毎年5月に運航される住民健診便(通称レントゲン便)だ。1日目の深夜に鹿児島港を出港して、2日目の早朝にトカラ列島最北の口之島へ入港。港で住民の方々が健康診査を受ける間、正味1時間〜1時間半ほどだが、船長の許可が出れば一般の乗客も島に降りることができる。そうやって有人7島を巡り、3日目の夕方に奄美大島の名瀬港に入港する。

島に着くと胃検診車と胸部検診車が船から降ろされ、役目を終えると再び船に積み込まれて次の島へ。

黒潮に洗われる絶海の島々

鹿児島の南から台湾までの広い海域には、火山活動やサンゴ礁の隆起によってできた島々が、飛び石のように連なっている。屋久島を擁する大隅諸島、トカラ列島、奄美群島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島など、いくつかのグループを総称して南西諸島という。また、微妙に範囲が違うようだが、「琉球弧(りゅうきゅうこ)」という美しい名前でも呼ばれている。気候も景観も文化も本土とは異なる南西諸島は、離島好きには憧れの地だ。

トカラ列島の有人最南端、宝島はサンゴ礁に囲まれた亜熱帯の島。引き潮の潮だまりは恰好の遊び場。

 

台風の通り道にある南西諸島は自然環境が厳しい。なかでもトカラ列島は黒潮が通過する海の難所で、長い間、開発から取り残されてきた。黒潮は幅が100kmにも達し、毎秒5000万トンもの膨大な量の水を輸送する強い海流。東シナ海を北上してから、トカラ海峡を横切って太平洋に入り、日本の南岸を通って房総半島沖を東に流れていく。船で外洋へ出て黒潮にぶつかると激しく揺れるが、トカラ列島はこの黒潮に常に洗われているため、かつては船の航行も接岸も容易ではなかったという。

気象庁ホームページ「海流の診断の見方」黒潮の診断に記載する代表的な地点より

 

トカラ海峡は黒潮の通り道。海が荒れると厳しい船旅になる。

 

一方で、黒潮が流れるトカラ海峡は冬でも水温が高く、サンゴ礁が発達した豊かな海に多種多様な魚が生息。大物釣りやダイビングのメッカにもなっている。さらに、温帯と亜熱帯の分岐点に位置するため、動植物の種類が豊富で、島ごとに異なる環境で進化した固有種も多い。活火山、温泉、平家伝説、トカラ神道、トカラ馬、トカラヤギ、ボゼ祭り、野生牛。人の手がおよばない自然と独自の文化が残されたトカラ列島は、旅行者を惹きつける魅力的なキーワードにあふれている。

トカラ馬は日本の在来種で、鹿児島県指定の天然記念物。中之島の牧場などで飼育されている。

悪石島と小宝島の間には渡瀬線と呼ばれる生物の分布境界がある。小宝島に近くなると海の色も変わる。

亜熱帯の島々におなじみのアダン(タコノキ)。

 

十島村役場のホームページに掲載されていたレントゲン便の時刻表。5月14日(月)の23:00に鹿児島港を出港する。

 

(つづきます)

 

写真:武藤奈緒美
文:根本聡子
旅行した日:2018年5月14日〜17日

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