タケジロウさんの沖縄戦

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沖縄の壕を回り、ウチナーグチで投降を呼びかけた

ミネソタ州での訓練が終わると、タケジロウさんは兄と同じ部隊に配備され、フィリピンのレイテ島へ送られた。タケジロウさんをハワイに呼び寄せてくれた姉が、タケジロウさんの英語力を心配して、兄弟が同じ部隊に配属されるように軍に宛てて手紙を書いたからだ。日本との攻防戦が続くなか、タケジロウさんは軍師団司令部に呼び出される。

タケジロウさん
「情報将校のテントに入ると、大きな沖縄の地図が貼られていました。その瞬間、冷水を浴びせられたような感覚に襲われましたよ。『ああ、次は沖縄だ……』と。昭和19(1944)年10月10日、沖縄に大空襲がありましたね。将校はその後に撮った空中写真を私に見せて、『沖縄は日本軍の要塞になっているだろう』と一列に並ぶ白い建物を指しました。それは沖縄独特の亀甲墓(きっこうばか)でした。要塞ではないと説明すると、『ここで見るもの、聞くもの、話すことは、絶対に誰にも話さないように』と口止めされました」

「こうして私は沖縄作戦の手伝いをさせてもらいました。同じ部隊の兄にも言えませんでしたが、毎日のように司令部に呼ばれる私を見て、兄はうすうす気づいていたようです。毎晩もう眠れなかったですよ。沖縄にいた頃の夢を見ました。おじさん、おばさん、同級生たち……非常に辛かったですよ」

 

太平洋の島々を陥落させたアメリカ軍は、沖縄の慶良間諸島に上陸。そして、いよいよ沖縄本島へ上陸する日が来た。昭和20(1945)年4月1日。終戦の4カ月半前だった。

タケジロウさん
「アメリカ軍は沖縄の西海岸から上陸しました。読谷の近くから北谷までの海岸です。私の師団は96師団のなかでいちばん右翼でした。その日は朝早くからみんな甲板に並んでおるでしょ。私は山の形から(故郷の)島袋はあのへんだってわかるから、涙をこぼしながら甲板に立っておりました。なぜ私はこんなウチナーンチュ(沖縄人)の顔して、なぜ祖先の土地に攻め込んでいかなくちゃいけないのかと、非常に苦しい気持ちでした」

アメリカ軍は上陸当初、日本軍の猛攻を予想していた。しかし、アメリカ軍はほとんど抵抗を受けることなく無血上陸を果たす。はるかに戦力の劣る日本軍は、軍司令部の首里を中心に陣地を固め、宜野湾以南に集結して持久戦をとる作戦だったからだ。日本軍の任務は沖縄を本土として守り抜くのではなく、出血消耗によってアメリカ軍を沖縄へ釘付けにし、本土決戦に備えることだった。

 

アメリカ軍の戦艦や上陸用舟艇で埋め尽くされた読谷村渡具知海岸。手前は陸揚げされたドラム缶の山。(アメリカ沿岸警備隊撮影)

 

沖縄に上陸した際、タケジロウさんには忘れられない出来事がある。タケジロウさんたちの部隊が丘を上り始めると、そばの茂みに人が隠れている気配を感じた。タケジロウさんはとっさに身を伏せて銃を構えた。

タケジロウさん
「私はあまりに興奮していて、茂みに向かって引き金を引こうとしていました。そして気を取り直して、出てくるように呼びかけましたが、何を叫んだのかわかりません。もういちど落ち着いてから、『いじてぃめんそーれ!(出てきてください)』と方言で呼びかけました。すると老婆が怯えきった様子で出てきた。老婆の後を5〜6歳の少女がついてきました」

老婆は足が不自由で、北部へ避難した家族について行けず、茂みに隠れていたのだという。タケジロウさんは、後で避難所に連れて行くから座っているように言い含めて前進を続けた。

タケジロウさん
「あのとき、引き金を引かなくてよかった。上陸した直後で気が立っていたから、もう少しで撃ち殺すところでした。もし人を殺していたら、こうやって戦後に体験を話すことはなかったでしょう」

 

壕の入口に火炎放射器を向けるアメリカ軍の兵士。(沖縄県公文書館より提供)

 

激しい爆撃を受けて変わり果てた故郷に降り立ったタケジロウさん。上陸後3日ほどは亀甲墓の中にこもって日本兵の日記などを翻訳した後、普天間神宮前にあった農事試験場(現・普天間高校)の師団司令部から、あちこちの壕(ガマ)を回って投降を呼びかけ始めた。

タケジロウさん
「私が初めて行った壕は、確か野嵩(のだけ/宜野湾市)の近くだったと思います。壕の前に隠れて、メガホンで『出てきなさい!』と叫びました。『アメリカ人は野蛮人じゃないから、出てきても何のケガもさせない』『食べものも水もある。咳をしている人がいたら看護兵が治療して薬もあげる。ここにおったら危ないから出てきなさい』と」

しかし、「生きて虜囚の辱めを受けず」と厳しく教え込まれてきた沖縄の人々は、タケジロウさんの呼びかけに容易には応えない。「アメリカ軍に捕まれば虐殺される」「女性は強姦されて殺される」と信じて疑わなかったからだ。壕の中で手りゅう弾を爆発させ、集団自決の道を選ばざるを得なかった。投降しようとした民間人を、同じ壕にいた日本兵が射殺することもあった。

タケジロウさん
「最初は興奮していたので、日本語で話したか、半分英語で話したか、はっきり憶えておりません。しばらくして落ち着いてから、まず信用してもらうために標準語(日本語)で呼びかけて、その後ウチナーグチ(沖縄方言)で自己紹介をしました。祖先代々の履歴を言ってね、『わんねー(私は)北中城村の比嘉武二郎やいびーん(です)。いじてぃめんそーれ(どうか出てきてください)!』と。(呼びかけに応じた人たちが)壕から出るのは見ておりません。というのは(すぐに)次の壕に行かなくちゃいけない。実際には何名救うたか、どの壕から救うたかはわかりません」

 

壕に向かって投降を呼びかけるMISの通訳兵。

 

携帯用の英和辞典を引きながら、メガホンを片手に、英語で、日本語で、ウチナーグチで、タケジロウさんは呼びかけ続けた。MISの通訳兵が沖縄で命を助けた民間人は、2,000人とも3,000人ともいわれる。タケジロウさんは1995年、戦後50周年の祈念イベントで沖縄へ帰郷した際、そのひとりに会ったことがあるという。

タケジロウさん
「普天間の壕に隠れていたというおばさん、多和田さんいうてね、どうしても私にお礼したいと言って、琉球新報を通して面会しました。『あなた方はまだ若い。無駄に死ぬんじゃない』と私に言われて壕から出たと。多和田さんの娘という20代の女性も一緒で、『タケジロウさんのおかげで私が生まれました』と言ってくれたときは、うれしくて涙が出ました。多和田さんがいた壕には230人ぐらいおったらしい。日本軍から手りゅう弾を渡されていたそうです」

 

北谷海岸の防波堤からあたりを眺めるタケジロウさん。

 

 

アメリカ、日本、沖縄の狭間で揺れ続けた人生

2017年10月、タケジロウさんは94歳で亡くなった。生まれた国のアメリカと育った国の日本、2つの祖国の間で葛藤を繰り返したが、終戦後はハワイで国税局に就職し、同じ日系二世の女性と結婚して2人の子どもに恵まれた。

沖縄戦では日系二世兵による300名以上のMIS隊員が配備され、彼らは戦後も沖縄の復興に力を尽くした。任務の性格からMISの存在は長らく極秘とされ、経歴を明かさずにひっそりと暮らす元隊員も多かった。アメリカ政府が公式にMISの功績を認めたのは2000年。2010年には、同じ日系人の442連隊戦闘団などとともに、一般市民に与えられる最高位の勲章である議会名誉黄金勲章がMISに贈られた。

自身の体験を語ってきたタケジロウさんが、生前に繰り返してきた言葉がある。

タケジロウさん
「私は沖縄戦に巻き込まれて非常に苦しみましたが、持っていた鉄砲を人に向けて撃つことなく、メガホンと英和辞書で役目を果たすことができました。ハワイ生まれのアメリカ市民二世として義務を果たし、同時に沖縄の人のために少しでも役に立つことができて、非常にうれしく思います。戦争というのは、人間のもっとも馬鹿馬鹿しい行動ではないでしょうか。目的は人を殺すか、物を壊すかしかない。二度と戦争を起こしてはいけません」

 

北谷で会ったタケジロウさんは、冗談を言ってよく笑うチャーミングなおじいさんだった。若き日のタケジロウさんも戦争が嫌いな普通の青年だったはずだが、日系二世、とりわけ帰米二世という複雑な生い立ちゆえに、ついには沖縄戦に巻き込まれてしまった。

外国とは海で隔てられ、70年以上も戦争のない国に暮らす私たちに、タケジロウさんの人生は遠い世界の数奇な出来事のように思える。しかし、いつの時代に、どこで生まれ、どのように育つかを選べる人はいない。タケジロウさんは、アメリカ、日本、沖縄の狭間で翻弄されながらも、そのときどきに開かれた道を進みながら激動の時代を生き抜いた。タケジロウさんが遺してくれた言葉から、私たちが学べることは多いのではないだろうか。

 

読谷から北谷にかけての海岸線。現在はホテルが立ち並ぶリゾートエリアになっている。

 

 

タケジロウ・ヒガさん
1923年にハワイのオアフ島で生まれ、2歳で両親の故郷である沖縄県北中城村へ。16歳のときに再びハワイへ戻る。1941年の真珠湾攻撃で日米が開戦すると、日系人を集めたMIS(アメリカ軍陸軍情報部)に志願。沖縄戦では通訳兵として、日本軍の資料の翻訳や捕虜の尋問のほか、民間人に投降を呼びかけた。1995年以来たびたび沖縄を訪れ、日系アメリカ人としての戦争体験を伝えてきた。2017年10月逝去。

 

写真:大城亘
企画:しまざきみさこ
文:根本聡子
取材・撮影日:2014年12月7日
※2017年12月6日に行われたタケジロウ・ヒガさんの講演内容(沖縄県平和祈念資料館主催「日系二世が見た戦中・戦後」)を含んでいます。

 

関連イベント

LOVE & PEACE LIVE 比嘉武二郎 追悼ライブ
11月24日(土)・25日(日) 10:00〜17:00
沖縄国際大学 3号館303号室

タケジロウ・ヒガさんの没後1年にあたり、生前タケジロウさんに縁のあった有志を中心に追悼イベントを行います。LOVE & PEACEをテーマしたライブ・ペインティングではこのイベントのためにU-MIOが書き下ろした曲を生演奏。トークライブでは10代と50代が世代をこえてタケジロウさんについて、平和について語ります。
11月24~25日の第47回沖国大祭にあわせて開催。入場無料。
参加アーティスト:左右田薫(画家/グラフィックアーティスト)、U-MIO(レゲエアーティスト)
トークライブ:ピースフル・フューチャー(沖国大生による団体)、功刀弘之(元沖縄県平和祈念資料館学芸員)

※このイベントは終了しました。

 

参考文献

『ある沖縄ハワイ移民の真珠湾 〜「生みの国」と「育ちの国」のはざまで』 堀江誠二

フリージャーナリストの堀江誠二さんによるルポルタージュ。1990年にハワイでタケジロウ・ヒガさんとその家族を取材し、沖縄出身の日系ハワイ移民と太平洋戦争について、貴重な証言と考察を収めています。現在は絶版。中古品は購入可能。(PHP研究所、1991年11月発行)

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大城 亘

Wataru Oshiro, photographer
1977年、沖縄県糸満市出身。 東京・代官山スタジオ勤務を経て、写真家の大森克己氏に師事。2006年に独立し、東京を拠点に雑誌、広告などで活動。2011年5月より故郷沖縄に拠点を移し現在に至る。

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